「諦める」の本意

皆様こんにちは。今回のテーマは「成長あるいは大人になった実感」でありますが、私はとても頭を悩ませてしまいました。大人という概念には定義がありません。
よくわからない物をよくわからないまま話したところで話が滑るだけです。また成長を認めるのは他者であり、他者の証言もなく成長を自称するのは
少なくとも私は抵抗がありました。大人という言葉を調べてみても「法律の定める年齢」だとか「人生経験の差」、「建前と本音を分ける事」、「責任をもつ事」
などと、いまいち実体をとらえることができませんでした。しかしそんな中で一つだけ私の目から鱗が落ちる「諦めるの本来の意味」を知ったので
今回はその話をさせていただきます。

皆様は「人間諦めが肝心」だとか「物事を諦められたら大人」とかいう物言いを聞いたことがあるでしょうか?私はこの物言いを初めて耳にしたときから
「本気で言っているのか?」と疑念を抱いていました。何でもかんでも諦めていれば、自分は何も成し遂げられなかったと泣きを見る事になりますし、
なんならいっそ生きる事を諦めればそれが大人なのか?と感じていました。しかしそれらの疑念は「諦めるとは希望を投げ捨てることではない」ということを
知ることで逆に納得することができるようになりました。「諦」という字は仏教の言葉「サティア」を表した漢字で、「真理、道理」という意味を表します。そして
仏教では「諦」には4種類あり「四諦」「四聖諦」と呼ばれます。簡単に四諦の意味を解説しますと「人生の全ては身心を悩ませる「苦」であるが、その「苦」には
原因があり、それらは滅することができ、その方法(道)がある」という真理を説いたものです。

この四諦の考え方が転じて諦めるという言葉は「物事の本質を明らかにし、見極めること」という意味となります。つまり「諦める」は本来「明らめる」と
同じ言葉であると言えますし、「希望を捨て去る」という絶望的な意味はまるでないのです。私の想像での解釈ですが、「執着」や「煩悩」を廃し仏の世界を目指す
僧侶達は、自身を世間から隔離し過酷ともいえる修行に励みます。俗世を捨てるその姿から、諦めるとは何もかもを捨て去ることであると誤解したのかもしれません。
「諦める」の本来の意味を理解した上で、「人間諦めが肝心」という言葉を見てみると、「人間は物事の本質を見極める事が肝心」と言い換えられます。
目標達成や自己実現にとってとても重要な考え方であると納得できると思います。しかしながら、物事の本質は時に残酷であるのはよくあることです。それらに対し
過度に恐怖や動揺せず、このまま続けるかそれとも違う方法を試すのか判断することができるのは成熟した大人であると考えられます。したがって「物事を諦められたら
大人」という物言いも的を射た発言だとわかります。

「諦める」とはただ希望を失うことではなく、「自身や世の中を観察し大事なことを明らかにする」という意味を読者皆様をはじめ多くの人に知れ渡ることを望みます。